この度小山登美夫ギャラリーでは、菅木志雄展「放たれた景空」を開催いたします。
本展は菅にとって当ギャラリーにおける8回目の個展となり、今回初めての試みとなる、六本木のギャラリースペース奥の部屋全体を使ったインスタレーションの新作と、近年継続して制作している壁面の立体作品の新作を発表いたします。
【展示風景 オンラインビューイング】
協力:Matterport by wonderstock_photo
【菅 木志雄について
― 同時代を生きる、戦後日本美術を代表するアーティスト】
菅 木志雄(1944-)は、1968年多摩美術大学絵画科を卒業し、60年代末~70年代にかけて起きた芸術運動「もの派」の主要メンバーとして活動。その後もインド哲学などに共鳴した自身の思考を深化しながら50年以上も精力的に制作を続け、同時代を生きる戦後日本美術を代表するアーティストとして独自の地平を切り開いています。
菅は1968年の初個展以来、国内外約400回もの展覧会で作品を発表してきました。近年では2017年第57回ヴェネツィアビエンナーレ国際展「VIVA ARTE VIVA」にて水上でのインスタレーション代表作「状況律」を再制作して大きな注目を浴び、同年ポンピドゥ・センター・メッスで開催された「ジャパノラマ 1970年以降の新しい日本のアート」展にも出展。
今年2020年6月24日- 8月24日開催の国立新美術館「古典×現代2020―時空を超える日本のアート」では、2つの大きなインスタレーション作品を出展。仙厓の「円相図」との軽妙さが呼応した展示が反響を呼ぶなど、尽きることのない制作への情熱により、益々現代性を生み出し続け、活躍の幅を広げています。
作品は国際的にも高い評価を受けており、ポンピドゥ・センター、テート・モダン、ダラス美術館、ディア美術財団、ハーシュホーン美術館彫刻庭園、M+や、東京国立近代美術館、東京都現代美術館をはじめ、国内外幾多もの美術館に収蔵されています。
【菅作品と制作プロセスについて
– 自由な広がりと曖昧さ、ものとの交渉の「喜び」】
菅は、普段私たちがよく目にするような木や、石、金属、ロープなどの「もの」を集め、選び取り、融和させたり、対峙させながら、絵画のキャンバスのような木枠、展示空間、屋外などに配置し作品を構成します。また、ものを単独で存在させるのではなく、「もの」と「もの」、「もの」と「場」が相互に依存し合う「連関性」 や「差異」、「複雑性」や「複合性」を 表出させる事で新たな状況を生み出し、ものと場の存在性を一層際立たせます。
まず、菅は制作に至る前段階として、「もの」に対して「石を、これは石ではないのではと考える」というように、人間がつけたものの役割や機能、イメージを徹底的に取り払い、ものと対話しながらその本質や存在とは何かを再認識していきます。
特徴的なのは、菅が「もの」を単なる「固体」、人間が意味を与えた「客体」と見るのではなく、むしろ独自の論理と方向性、現在性をもつ主体的な存在として捉えており、アーティストの役割は「もの」に潜在的に備わっているあるべき姿とそれにふさわしい場を見出すことだ、と考えていることです。
「(いままでは)つまり作家が主体で、扱うものは客体というわけ。どうして作家がものを支配的に扱わなくてはならないのか?石でも、木でも、それぞれの場所があり、場には個々のリアリティがある。」
(「『もの』をどう見るかは、人それぞれの問題だ」Discovor Japan、2020年3月6日)
そして、そんな「もの」たちを切り、曲げ、折り、並べ、重ね、繋げるなど「もの」本来の存在を表出すべく極力最低限の行為をします。
そこから「石ころひとつを数時間ごとに動かしながら、状況の違いを考える」ように、丁寧な推敲を繰り返しながら無限の可能性の中から「ものが十分に存在的にリアルに生きている」ような「ここだ」いう一点に置いていく行為を繰り返し、菅の造形の構築性を成立させるのです。
長谷川祐子氏は菅作品について次のように言及しました。
「菅の作品は空間のなかに放り出されたようなその無造作なたたずまいによって、自由な広がりと、曖昧さの両方をかもしだしている。」
「なぜ菅の作品が見るものの記憶に印象付けられるのかはこの(菅とものとの)交渉の『喜び』からきている。」
(長谷川祐子「ほとんどすべてー菅木志雄のメイキング」菅木志雄個展カタログ『測られた区体』、小山登美夫ギャラリー、2019年)
【本展の新作について
-ものと場が生み出すリズム、多面的な世界への入り口】
菅は2015年、17年、18年、19年、今年20年と連続して弊廊での個展を開催し、継続して壁面に展示される立体作品に取り組んでいます。それは一見平面的ながらも、「もの」が立体的に構成されることで、作品内部に空間が抱き込まれるような新たな構造を作り出しています。
本展の新作は、木枠の中に格子状の枠組みが更につくられたり、大小異なる木片がリズムよく並んだり、小さい丸太の断面は縦に連なりどこまでも続いていくかのようです。さらに赤、黄、青などのペイントの塗りによる新たな視覚効果も目に鮮やかです。
また、ギャラリーの奥の部屋の壁面全体に細長い木材を渡し、その一部を切り取り部屋の中央に置くインスタレーション作品を展開。全体と一部、ものと場の連関性を表します。
本展に際し、菅は次のステイトメントを記しました。
「<もの>があるというとき、そこに必然的に<場>があるということを考えなければならない。<もの性>と<場性>は、背中合せのものであって、どのような状況においても離して考えられない。<もの>を認識しているとき、<場>も共に意識の中に入れているといっていいだろう。<もの>があるべくしてあるような状況を考えるなら、<場>についても、その場があるべくしてあるような<場>であるといっていいかもしれない。ものはいわば一点集中的に、<場>に存在しているが、場は、もともと非実体的な様態によっていると思われるので、もののように視るというわけにいかない。しかしながら、<もの>の存在が消えさらないかぎり、<場>は、歴然として、そこにあるべくしてある広がりとしてあるのである。また逆に<場>があるからものはあるべくしてある姿を保ちつづけていられるといってよい。」
作品の中で「もの」が菅にとってあるべき「場」に置かれたとき、その「もの」の配置のちょっとしたずれの連続性は、まるでリズムや破調、気配やエネルギーまで生み出しているようであり、見るものに心地よく伝わるでしょう。そして私たちは、「もの」が今まで知っていたものとは異なる姿や情景を表しているのを見ることで、本来多面的なはずの世界の側面を知ることができたような自由と解放感を覚えるでしょう。
【「ものはあるようにある」】
– 現在において菅作品が示唆すること】
「たとえば木の枝なら大木が元にある。そうした目には見えないけれど、支え・支えられている関係を感じることで見えてくるものがあります。ものが互いに依存する連続性に思いを巡らすと世界の見方も広がっていきます。(中略)作品を通じ、ものだけでなく人間社会も洞察できればいいなと思っています。」
(「ものに見る世界」毎日新聞社賞授賞式、毎日新聞、2016年1月30日)
「『ものは、あるようにある』。存在をあるがままに認めること、つたなくともそれを自分で感じ、語ること。それはその人がどう生きるか、ということだから。」
(「『もの』をどう見るかは、人それぞれの問題だ」Discovor Japan、2020年3月6日)
現在世界中で、今まで当たり前だと思っていた価値観からの脱却が求められています。お互いに支えあいながらも、それぞれの存在や自律を認め合う菅の「もの」観は、まるでものと人、人と人の関係に対しても多くの示唆を含んでいるようです。
力強く提示される菅の作品世界は、現在の私たちにどう見えてくるのでしょうか。この貴重な機会にぜひお越しください。
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