Blooming at a factory, 2015, oil on canvas, 182.5 x 259.0 cm @Daisuke Fukunaga
作品について
福永大介は、身近にありながら普段私たちが目にとめることもない取り残された場所、誰からも忘れ去られ放置されたような物を描きます。うらぶれた空き地、建築中のビルのまだ電気工事もされていない地下室や、モップなどの使い古された掃除用具、タイヤ、廃棄物など。福永のペインティングの中で、それらの物たちは表象主義的なエネルギーで描きあげられることによって通常付与されている使用目的を脱ぎ捨て、生物のようにうごめき、まるで感情や表情、人格すら得たかのように存在しています。
福永のペインティングは、このような終末を感じさせる背景と擬人的な表現によって、演劇的で強い喚起力をもっています。それは大きなサイズのキャンバスにダイナミックに展開することでより強調され、その存在の果てしない広がりや物質としての存在感が観る人を強く惹きつけます。
美術評論家の椹木野衣は,福永のペインティングに70年代のもの派との関連性を見い出し、次のように述べています。
「福永の絵は意外なことに「もの派」の系譜にある。もちろん原義の「もの派」ではなく(かといって「もの派」に原義などないが)、相当に拡張した意味においてであるが。」 そして、「モップが端的にそこに在る、ということ。その奇妙さ。驚き。不気味さ。ハイデガー流に云えば、モップという存在者が根源的にたたえている「存在」という基底が露出すること。「ものとの出会い」とは、ありのままの物質をどうの云う以前に、むしろそういう不測の事態であった。」(椹木野衣「焼き豆腐の在る台所と使用済みモップのあいだで」、福永大介個展カタログ、小山登美夫ギャラリー刊、2008年より)
また、松井みどりはVOCA2009の推薦文で、
「福永の絵画は、先ず、その表現の物質的な存在感や痙攣的な印象、そして擬人的表現によって観客を引きつけ、同時に目的論的な筋書きを失った世界において絵画を描き続けることの困難と挑戦について考えさせる。それは、同時代の画家達が共有する問題の無意識の代弁であり、また福永個人の絵画への誠実なコミットメントを証明するものだ。」と彼の絵の魅力を語っています。
虚構と現実が溶解し、そこにたちあがる濃密で独創的な感覚。それは福永自身が「何故か見てしまう、強迫観念的に気になってしまう」という、ものの存在への畏れのようなものやまなざしを真摯に突き詰め、独得なタッチで仕上げていくペインティングに力強く宿っています。
今回の展覧会についてのアーティストのコメント
本展では、約10点の新作ペインティングを展示致します。 今回の展覧会の作品やタイトルに関して、福永は以下のように語ります。
「僕は、街の片隅でふと見かけるモップや路上に打ち捨ててあるタイヤやショーウィンドウ越しに飾られたホイール、また外灯で美しい形を浮かび上がらせたバイクシートなどを何とも言えない彫刻作品だと思うことがある。それらはその場の環境や時間の経過、光のあたり具合、あるいは人の手によって使われることで、日々形を変えて彫刻されている。自分は、そうした日々の変化の痕跡に出会う時に受ける驚きと自分がそれらに見出す感情であったり情緒などの感覚をドキュメントするように絵画にする。まるでネコが当ても無く彷徨いひっそりと何かを見つめているような視点でもって。」
ドキュメントについて
また、今回のタイトルにもある「ドキュメント」についても次のように語ります。
「何故、今回ドキュメントという言葉を用いたかというと、今まで自分が描いてきたーもの、ことーというのはどうゆう事なのかと改まって俯瞰して考えてみたのがきっかけです。 自分が描きたいと思うモチーフは人気の無い、または人の痕跡が残っていてその後に取り残され放置されたもの、というか場に反応して出会います。道端であったり、幹線道路沿いや資材置場、工事現場などです。それらの場になぜ関心をよせるかと考えてみたとき、労働という言葉が出てきて、実際自分がバイトなどで労働している時にそれらの場に出会うことがあり触発されてきました。
身近なところでは今現在の清掃工場での体験があります。この工場は大きいので内部に様々な場所があります。それは巨大なゴミ捨てピット(穴)であったり、配管パイプが入り乱れている所や控え室など、大抵は薄暗く何処からか光が漏れて照らされている感じです。今の季節ですと非常に蒸し暑く悪臭もあります。しかし外部からみると、住宅街からは少し奥まったところにあるので解放感があり、四季の移り変わりも感じます。
この仕事の前は八王子市の全ての公園、幾つか忘れましたが何百箇所かを回って、公園内の遊具などの設備を一つ一つ全部を調査する仕事をしてました。夏から冬の半年くらいでしたが、いろいろな季節や時間によって様々なシチュエーションを感じることができました。またそれ以前、20代半ばくらいの頃はいわゆる日雇い派遣をしてました。基本的にはベッドをホテルや病院に納品し、設置する仕事が主です。"ホテルウーマン”(ベッドの置いてある部屋のなかの黒人の女性を描いたもの)という絵はこの時のある一瞬の光景を描いたものです。この仕事は都内など様々な場所へ行くので仕事が終わると思いのままに街を歩いたりしてました。思いのままとはいえ、自分の惹かれる場に出会うために、こっちかな、いやあっちだな、というように何か感覚的に反応する方向に歩いてゆくといった具合です。その中で出会う発見もけっこうあり、こうした街歩きみたいなものは前々から好きでよくします。
まるで、飼い主に連れられて散歩する犬では無く、赴くままに自分の行く先々でひっそりと佇んで何かをじっと見つめているネコの様なもんだなあとか思ったりして。
赤瀬川原平のトマソンもこうした街歩きの延長での事だと思うので勝手に親和性も考えたりしました。また同じ時期、2010年の京都の小山登美夫ギャラリーでの大野、桑久保、工藤、福永の四人展でのオープニングの後、そのまま関西に残り、大阪のドヤ街西成地区で実際に日雇いをしてみようと計画して行ってみたりもしました。
僕は、こうした労働の中での体験から多くのインスピレーションを受けていると思います。
また、今回は去年の夏に福島に赴いた時の体験として放射性廃棄物が入れられたフレコンバックを描いた絵もあります。これは以前からずっと気になってた福島県の何箇所かを三日間くらいかけて回りました。そうした中での最も印象的な光景として海岸線や街や畑や至る所に突如置かれているフレコンバックを目の当たりにしました。福島から帰ってきてからもそれらの光景が余韻として残っていて、作品として記せないかとずっと思ったまま、しかしなかなか着手できませんでしたが、その光景も今回作品になってます。
写真などのような事実を記録するドキュメントでは無く、こうした実際の体験の中から得られた抽象的な感覚を絵画としてドキュメントするということです。これはずいぶん素朴な方法であって、かつ内向的ともとれる個人的な世界観の発露と言えるかもしれませんが、僕はミクロな視点から世界を捉えるといったことをしていきたいと思っています。」
福永大介
2013年の小山登美夫ギャラリー京都での開催から2年ぶり、5回目の個展となります。福永の新たな挑戦となる本展を是非ご高覧下さい。
作家インタビュー
美術手帖 2015年9月号 ART NAVIより
野路千晶=文
吉次史成=撮影
市井の「もの」に捧げるドキュメント
一列に並んだ掃除用モップ、無造作に立てかけられたタイヤのホイール、あるいは光沢のあるバイクシート。 福永大介がモチーフとして選び、描くのは、取るに足らない、ある目的のためだけに機能する日常の道具たちだ。
小山登美夫ギャラリー東京で9月12日より開催する新作展のタイトルは「Documenting Senses -イヌではなくネコの視点によって-」。福永の視点は、気ままに街を回遊するネコのそれとして副題で表される。「建物の裏側、路地裏、バックヤードなど、表からは見えない場所に惹かれます」。そうしたスペースの一角で、つい「見つけてしまう」というモチーフは、表現主義を思わせる豊かな色彩によって絵画化される。「色をたくさん使っているけど、自分が大切にしているのは全体のトーンだと思います」。福永の話す「トーン」には、色調だけではなく、自らの感情、印象といった意味も含まれる。「ものから感情を汲み取ると同時に、自分の印象や感情を反映させています」。商業施設の一角に置かれたモップ、あるいは国道沿いに殺風景に打ち捨てられるホイールは、作家との交感を経て、あたかも擬人化されたように固有の佇まいを放ち始める。しかし、表現においてはあくまで「あるがままの姿を描いています」と言う。その姿勢によってもたらされものは、いわば道具たちの「ポートレイト」だと言えるのだろう。だが、より最適な言葉として、作家は「ドキュメント」を選ぶ。福永による絵画作品は、イメージや意味の顕れである以前に、自身の感情の機微、対象への感応をとらえた高精細な記録となっていく。色鮮やかに彩られた、ありふれた「もの」が見せる姿は、まぎれもなく福永の視座そのものなのだ。