【 作品紹介】
桑原正彦は、ユーモラスなモチーフを明るくやわらかな色彩で描きながら、その絵画作品は、わたしたちが見過ごしがちな、日常の端々に転がるどこか不思議なものごとに、目を向けさせてくれます。
桑原は活動初期から、都市部の淀んだ水辺に生息する奇妙な動物、体の半分がハムになってしまった畸形のブタ、その他名前すらつくことのない無数のキャラクター、あるいはチラシや雑誌に掲載される女性モデルなどを描いてきました。コミカルな装いをしつつも、しばしばそこには現代の都市生活者が抱える空疎な孤独の気配が読み取られ、美術評論家の椹木野衣氏は、ブタや女性のモチーフの作品について、次のように語りました。
一見すると華奢なくせに、部分を取れば妙に肉付きがいい。愛らしいともいえるが、次の瞬間にはどこか狂って感じられる。すなわち、桑原の描く「彼女たち」は、これまで彼が好んで描いてきた「ブタ」の、別の姿だという事に気付かなければならない。(中略)桑原の描くコギャルたちは、性に対してなんのてらいもない奔放さを感じさせながら、「繁殖」に関与している気配は全くない。むしろ、彼女たちの性には癒しがたい不毛さが漂っている。
(椹木野衣「そんな<ブタ彼女>の肌が白ければ白いほど」『暮らしと膿』展覧会カタログ、2001年、pp.2-3)
しかし、2010年頃から桑原が制作に向かう態度は少しずつ変わってきました。桑原の自宅には、パソコンも、テレビも、ファックスすらありません。彼は毎朝夕に届けられる新聞に、また新聞以上に折込みチラシにじっくりと目を通し(そのなかの情報は、しばしば作品のモチーフやタイトルとして引用されます)、近所を散歩し、絵に向かい合います。そのおだやかで、しかし少しずつ変化していく環境と、自分自身によって、最近は気負いがなくなり、描きたいものを正直に描きたいと思うようになったと言います。桑原は日常(社会)の変化をおおらかに受け止め、ありがちな懐古主義に陥る事なく、“いま”の、すこしいびつで、不思議な端々を、絵にうつしていきます。そこには社会に対してなんらかの是非を問うというような大仰さも、虚栄心もなく、代わりにあるのは、自分はただ描くのみだという描き手としてこの上ない覚悟です。椹木氏は、2010年の個展『とても甘い菓子』のレビューの中で、その感覚をオーバーフローという言葉であらわしました。
桑原の絵は、それが形式的には絵画であるとしても、それを見る経験は容易には「絵画」や「平面」に還元できない。そのオーバーフローを生み出すのは、画面での絵具の扱いがそれこそ印象派から後期印象派、そして抽象表現主義に至る流れの中で習得的になされているにもかかわらず、そこにたたずむ女の子の像はと言えば、画面に完全に溶け込む寸前で(ほんとうに微妙な瞬間で)偶像的(イドラ=アイドルとして)に残されていて、見る者に夢のように幸せな記憶を呼び覚まし(むろん、それは耐え難い記憶の裏返しでもある)、画面とそこに投影される思いとの間に物理的とはいえない容量の場をつくりだす。
(椹木野衣「桑原正彦展『とても甘い菓子』絵画からオーバーフローする印象と偶像」リバティーンズ、2010年、p.138)
コミカルでどこかゆるいモチーフ、軽妙なタッチが幸せな世界感を醸しながら、自身が身を置く環境を達観できる桑原の強さは、作品に確かな充実感を与えています。
【展覧会について】
本展覧会「夢の中だけで」では、2010年以降に制作された絵画作品を展示いたします。桑原は近作について語るとき、「多幸感」という言葉をしばしば用います。
出展作の中で最も大きい作品は《商業施設》(2012年)。隅々まで明るく広い商業施設(ショッピングモール)に反響するBGMは、どこか教会のような雰囲気で、人々は買い物以上に、そこにある多幸感に浸るために集まるのだろうと桑原は言います。作家自身も指摘する通り、お人形のような女の子とユーモラスなキャラクターが手をつないだ《Mirica》(2012年)は、どこか聖書の楽園追放の図のようでもあります。
桑原が制作活動を続けながら静かに周囲を見つめてきたその視線は、おだやかに、大きな変化を遂げたのかもしれません。小山登美夫ギャラリーではこれまでに7回の個展を数える桑原正彦。彼はいま、どんな日常を見つめ、絵画にするのか。本展覧会でどうぞご覧下さい。